西村 征一郎 (京都工芸繊維大学 名誉教授・建築家)
日常の文字について、物心つくまで、興味はなかったが、評判の良い人の書を真似た記憶がある。やはり形だけでも上手くなりたいという子供心もあったのだろう。経験的には、京都や大阪の何代も続く家柄の子弟は、”習字”の稽古事のせいか、総じて字が上手かった。中国の友人、留学生達もパソコン時代になっていても筆使いが達者に見える。歴史的に、中国文化の影響を受けてきた我が国の知識人が漢文学や仏典から、日本固有の文学や絵画に至るまで、その表現に卓越していたのは、社会・文化の背景として必須であったとも思われる。
古典はおろか、漢字、かな文字の読み解きもままならない筆者にとって最も魅力があるのは、毛筆によって作者の思いを伝える一種の絵文字として(ひらがな)の表現であり、内容(文章そのもの)には至らない。単に万葉仮名の変遷と言えばそれまでだが、漢字から、華麗に躍動する(ひらがな)の表情の確立まで、経緯は謎に満ちている。鉛筆も万年筆もなかった時代、筆と墨だけで、あれ程美しい筆跡を作り出した。現代文明の無数の既製文字に慣れてしまっている者にとって驚異にも思えてくる。
大学の実習課題で”レタリング”のことを思い出す。オールドローマン、モダンローマン、明朝、ゴチック等々の文字を、烏口と筆、定規でケント紙に模写する。模写サンプルの画面上のレイアウトと共に、アルファベット文字の配列が難しかった。文字問の”余白”(空間のリズム)に配慮して表現することを教えられたが、”ひらがな”は想定もしなかった。”手書き”はサインだけという、欧米型グローパルな文字表現では、緒緒の書体のタイプからワープロ、メールや絵文字までと多様ではあるが、筆跡鑑定などなじまない無性格なものになっている。表現者の”個性”はその内容(文字)のわずかな表情(クセ)に感じられる程度で印象は強くない。
一方、コミュニケーションの媒介には、文字より口伝、口承等の音(うた)による方が原理的一一表情豊かであると思う。人々の会話、ラジオ放送、朗読等の魅力を生む音の表情と流れている時間の要素が、密度の濃い”場”の記憶に強く作用し、それらの参加者が共有できるから。
増永広春さんの手書き表現は、現代の文字表現の状況を唱破すると同時に、臨場感のある音の表情(話し言葉)にも似て、愉快な場所に誘う。彼女の銀座のアトリエで、畳3畳大の大きな作品を拝見した時が初対面。筆、塁、の道具についても全く知識が無いが、時折TV等で見かける揮ごうのあの迫力ある制作を思うと、この様な尋常でない大きさの作品を一気に仕上げるのは、まさに走墨に違いない。時間の凝縮された墨蹟に感動する。競技そのもの以上に記憶に焼きついていた長野オリンピックの数々のポスターが彼女の作であることを知ったのもこの時であった。これからは、現代の象形文字あるいは絶妙のサイン絵図と言えよう。スピード感溢れる筆の走りが、冬季オリンピックの各種目を象徴的に表現している。
通常のポスター制作のグラフイック操作に見られない”余白”、をともなう白黒のシンプルな手書き(フリーハンド)の面白さなのである。独創性に満ちている上、長い歴史と伝統を持つ水墨画や絵巻物等に見る筆使いも彷彿させる。でも広春さんの表現には、いつも”自由”が漂っている。時には艶っぽく、時に剛直な佇まいとなって。それはあらゆる姿に変容するエネルギーの軌跡と見紛う墨跡がもつ表情にみえてくる。手書き表現の真髄を感じる所似かも知れない。
広春さんの”走墨のリズム”が聞こえてくる。
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